Particlight業務日誌

福岡ではたらくIT、作曲、デザイン系フリーランスParticlightの業務日誌です。業務に無関係な内容が多いです。

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キヲクトキロク

菊地成孔が「最近は昔のことをネットで調べて正しいかどうかいちいち確認しないようにしている」といった旨を何かのネット記事に書いていた(僕も自分の記憶を頼りに今このエントリーを書いているので違っているかも知れないが、大意はそんな感じだ)。松任谷由実の、つま恋だか白馬だかのイベントが何年開催であったか、とかそういう話だったように記憶している。

昔――と言ってもインターネット以前の頃、せいぜい20年から30年ほど前の話だ――の作家は事実に反する記述をする、あるいは単に間違うことが珍しくなかった。比較的論拠を明確に示すほうであった呉智英ですら、たまに思い違いをしているコラムを書いていたように思う。これは校閲が仕事をしなかったわけではなく、事実に反するかどうかはあまり問題でなく、作家の言葉が充分な強度を持って読み手に届くことこそを重要視していたからではないだろうか。司馬遼太郎の作品は史実と異なる部分が多いが、彼の作り上げた歴史上の人物像は、日本人に大きな影響を与えた。巷間の坂本龍馬像などはその最たる例だろう。司馬遼太郎本人も、史実性よりも作品の質を優先していたとインタビューで語っている。

一方、現代に生きる僕たちは、なにかをインターネットに書き込む前に、あるいは人に話す前に、自分の記憶に間違いがないか検索してからでないと発言できない臆病さが身についてしまった。それは恐怖と言い換えてもよさそうなくらい強く僕たちを縛りつける。話を簡単にするために、489円のことを「500円」と言ったら「489円ですよね」と訂正されるような経験を重ねて、臆病さはますます強固なものになってしまうのだ。

これは正確性に対するこだわりではない。正確性を求めるのと同様に、自分の考えが社会的にマジョリティーなのかをつい検索してしまう事実からもわかるように、他者からの糾弾を事前に回避する習い性のようなものだ。残念ながら、僕たちの大半はものごとが正確でないと知ってしまったときに、その間違いに大きく気を取られてしまい、指摘したくなる傾向にある。これが進むと、近頃とみに聞く機会の増えてきた「シャーデンフロイデ」という感情に結びつくのかも知れない。このエントリーでは意識的に「僕たち」という言い方をしている。これも「主語がデカい」などとやり込めたくなる向きもあるだろうが、書き手である僕が決して勢いでなく「僕たち」のことを書いているのだと考えているのだからそれ以外に言い様がない。ちょっとした間違いを理由に糾弾する人が増えた(あるいは可視化された)ため、臆病になってしまった僕たちは、21世紀になって少しずつ 臆病者になった 何故かわかる? 貴方 ってなもんである。髪の煙草の匂いが消えても思い出にはならず、僕たちは苦しみ続ける。

正確でなくてもいい。取り調べを受けているわけではないのだから、僕たちは常に正確に語る必要はない。このエントリーのいちばん大事なところをうまく言えなくて歯がゆいのだけれど、事実よりも、記憶のほうが正しいと直感的に感じて、それが実に正しい場合が、世の中にはそれなりにあるように思える。事実と嘘の中間にたゆたうその空間にのみ存在できる真実、それは表現と言ってもいいし、創造と言ってもいいかも知れない。人によっては、それを愛と呼ぶ者も、コミュニケーションと呼ぶ者もいるだろう。

抽象的で曖昧に過ぎるそんな空間が、僕にはとても愛しく感じる。

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